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藤原 実資 翻译  

2009-04-27 12:05:59|  分类: 观后感 |  标签: |举报 |字号 订阅

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藤原 実資(ふじわら の さねすけ、天徳元年(957年) - 永承元年1月18日(1046年2月26日))は、平安時代の公卿。藤原北家の一流?小野宮流の藤原斉敏の四男。後に祖父実頼の養子となり小野宮流を継ぐ。幼名は大学丸。小野宮実資とも。

 

藤原北家嫡流の小野宮流の膨大な家領を継ぎ、また有職故実に精通した当代一流の学識人であった。藤原道長が権勢を振るった時代に筋を通した態度を貫き、権貴に阿らぬ人との評価を受けた。最終的に従一位右大臣に昇り、「賢人右府」と呼ばれた。実資の残した日記『小右記』はこの時代を知る貴重な資料となっている。

 

生涯

祖父の実頼は摂政関白を歴任した藤原忠平の長男で、村上天皇のときに左大臣、冷泉天皇のときに関白、円融天皇のときに摂政を歴任、実頼の二男の頼忠も円融天皇、花山天皇の関白を務め朝政を指導したが、小野宮流は天皇との外戚関係を結べなかった。一方、天皇との外戚関係を巧みにつくった実頼の弟の師輔(九条流)の子の伊尹、兼通、兼家が台頭して摂関を歴任し、一条天皇が即位すると強い外戚関係を持つ兼家が摂政に任じられ、彼の系統が政治の主導権を握るようになった。

 

実資は参議斉敏の四男に生まれ、後に祖父の実頼の養子となり、非常に愛されて家領の多くを相続し、小野宮流を継承する。

 

小野宮流は藤原北家嫡流でありながら、分派であるはずの九条流に摂関家の主導権を奪われたが、九条流に対して記録資料の面で優れ、故実に通じる家として著名であり、実資は膨大な記録資料を実頼より継承したといわれる。また学問のみならず、蹴鞠の達人としても知られ、長徳3年4月17日(997年)には、賀茂祭の余興として自邸で鞠会を開き(『小右記』)、後世大江匡房からは「当世の名人」と評されたという(藤原頼輔『蹴鞠口伝集』)。その膨大な家領については未だ不明な部分も多いが、相当な財力を有していたことは、当該期史料から判明する。

 

実資は故実家?資産家としても知られたが、物事の要点を押さえ、個人の利得や名声のために真実を覆さないという良識人でもあった。

 

円融天皇のときの天元4年(981年)蔵人頭に任じられる。一条天皇のときの永祚元年(989年)に参議となり公卿に列した。

 

正暦元年(990年)に兼家が没すると、子の道隆が関白となり、次いで道兼を経て、道長が左大臣となり内覧を許され、伊周(道隆の嫡子)との政争の末に主導権を握り、権勢を振るうようになる。

 

長保元年(999年)道長の娘の彰子が入内することになり、その調度品のひとつとして四尺の屏風をつくらせ、それは当時の公卿名士たちから和歌を募り、藤原公任が選首となり、書家の藤原行成に筆を入れさせる趣向であった。これには公卿たちだけでなく、花山法皇までも御製の歌を贈った。このとき、中納言であった実資だけは「大臣の命を受けて、その屏風に歌をつくるなぞ、未だに前聞なし」と言って、道長から何度催促されても歌を献じるのを拒んだ。

長保3年(1001年)権大納言に任じられ、右近衛大将を兼ねる。

 

寛弘8年(1011年)一条天皇が崩御して三条天皇が即位した。三条天皇と道長は不仲で、やがてことごとに対立するようになった。ところが朝臣の多くは権勢家の道長に阿り、天皇は孤立し、朝廷の綱紀は日々弛緩するようになった。この時も実資は敢然として公平な立場に努め、天皇も密かに実資に頼るようになった。

 

三条天皇には東宮(皇太子)時代からの女御に道長の娘の妍子と藤原済時の娘の娍子がいた。即位とともに妍子は中宮とされたが子はなく、一方、娍子は敦明親王を生んでいた。長和元年(1012年)、天皇は娍子を皇后に立てるよう欲するが、道長に憚って決しかねていたところ、道長から立后の提案があった。ところが立后の儀式の日になると道長は嫌がらせを行い、同日を中宮妍子の参内の日として出席せず、諸公卿もこれに同調して皆中宮の東三条第へ行ってしまった。天皇は勅使を東三条第へ送って出席を命じるが、諸公卿には勅使を嘲り、参議藤原正光に至っては瓦礫を投げつける始末だった。実資はこの日は病身であったが「天に二日なし、土に両主なし」と言うや中納言藤原隆家とともに参内して、儀式を取り仕切った。

 

三条天皇は実資の態度を徳として感謝し、実資の養子資平に「朕は長く東宮にあって物情を知らず、一旦登極すれば全て意のままになると思っていたのに、后を立てるにも皆左大臣(道長)を憚り、勅命に応じようともしない。(実資の)忠懇を嘉とする。これからは諸事、大将と議したい」と伝え、これを聞いた実資は歓喜した。もっとも、賢明な実資は道長と正面から対決するようなことはせず、あくまで筋を通す態度を貫き、また、三条天皇も資平を蔵人頭に任じると約束しながら、道長を憚って止み沙汰にしてしまうなど、あまり頼りにはならなかった。

 

道長と対立を続けた三条天皇だが、やがて失明寸前の眼病となり、道長から強く退位を迫られ、結局、長和5年(1016年)に皇子の敦明親王を東宮とすることを条件に後一条天皇に譲位した。春宮大夫には実資が推薦されたが、実資は老衰の身であるとして固辞した。翌寛仁元年(1017年)に三条上皇が崩御すると、約束は反故とされ、道長の画策で敦明親王は東宮を辞退している。

 

寛仁3年(1019年)、刀伊の入寇を撃退した大宰権帥藤原隆家が部下らに対する恩賞を懇請し、これに対して諸国申請雑事定が公卿らによって行われた。大納言藤原公任と中納言藤原行成は、「彼らは追討の勅符が到達する以前に戦った。故に私闘であるから賞するには及ばない」と主張した。貴族らは文官統治を維持するために軍事を軽く見る傾向にあり、また、隆家は道長の政敵であった伊周の弟でもあり、道長に追従したためでもある。

 

これに対し実資は勅符が到達する以前に戦った点には問題があることを認めつつも、「勅符が到達したかどうかは問題ではない。たとえ勅がなかったとしても、勲功ある者を賞する例は何事にもある。寛平6年(894年)に新羅の凶賊が対馬を襲撃したとき、島司文室善友は直ちにこれを撃退し、賞を賜った。これと同じことである。特に今回の事件は、外敵が警固所に肉薄し、各島人が一千人余りも誘拐され、数百人が殺された。壱岐守藤原理忠も戦死した。しかし、大宰府は直ちに軍を動かしてこれを撃攘せしめた。何故に賞さないことがあろうか。もし賞さないならば、今後進んで事に当たる勇士はいなくなってしまうであろう」と弁じ立てる。

 

まず、大納言藤原斉信がこれに同意し、続いて公任?行成も翻意、ついに公卿ら皆意見を同じくして褒賞は決議された。また、当時政治の一線から退いていた道長もこれを是としている。このとき実資は右大臣に任ぜられるか否かで同僚らの歓心を買わなければいけない時期だったが、それでも付和雷同?阿諛追従することなく、ものごとの道理を滔々と陳述している。

 

治安元年(1021年)右大臣を拝し、皇太弟傅を兼ねる。長暦元年(1037年)従一位に叙された。

 

常に九条流に対抗する家の当主として活躍したが、晩年は子の資平への家督継承と家領温存のため、道長?頼通親子に口入を申し出るなど、九条流への柔軟な行動も見られる[1]。特に実資は頼通に非常な好意を抱いていたようで[2]、『小右記』には頼通を批判する記事はほとんどなく、頼通の方も政界の長老である実資への敬意を怠らなかったという。その一方で、当時の慣例に反して頼通が関白のまま実資と共同で一上の職務を行い、藤原公季の死去により空席になった太政大臣への昇進を頼通が実資の死後まで控えたのは、実資が頼通の後任の左大臣に昇進することで、一上として太政官を率いて頼通と対抗することを恐れたからだとも言われている(一上には通常左大臣が就任して、関白及び太政大臣はその職務には携わらず、左大臣が関白を兼ねる場合には右大臣が一上となる慣例であった)。

 

花山院の女御?婉子女王と大恋愛して結婚したが子供に恵まれず、晩年アルツハイマー型認知症が進行してからは焦りのために手当たり次第に手を出し、政治上の弟子である宇治関白頼通(彼は妻が非常に少ない)を嘆かせている。弟?権中納言懐平の子である資平を養子としたが、最愛の子は実女?千古(ちこ、ちふる)であった。

 

永承元年(1046年)に90歳で死去。信仰厚い仏教徒であったが、今はの際まで現実社会で活躍することを好み、その死に臨んでも出家することはなかった。天寿を全うするとき、彼の小野宮第には朝野上下の人々が参集し、声を放って慟哭したという。

 

実資は小野宮家の財産を多く、息女に継承させ、一子資平には一部しか継承させなかった。このためか、実頼から継承したと思われる家領は分散継承され、院政期には空中分解を遂げることとなる。また、男系子孫に財産が渡らなかったことによって同家の経済的な衰微を招き、小野宮家没落の原因を作ったと言われている。

 

実資は日記史料として後年、故実に必携の書となる『小右記』(小野宮右大臣家記の略)を残す。ここで実資は、現存する限り蔵人頭から右大臣近衛左大将を兼任するまで日記を残し、膨大な儀礼の記述を残した。また、個人的見解を記したことでも著名で、有名な藤原道長の「この世をば…」の和歌は実資の『小右記』から現代に伝えられた。

 

エピソード

気難しい性格であった実資も好色であったようで、『古事談』に以下のエピソードが伝わっている。

 

実資の邸宅であった小野宮第の北対の前によい水の出る井戸があり、付近の下女たちがよく水を汲んでいた。下女の中で気に入った女がいると実資はよく誰もいない部屋に引っ張り込んでいた。そこで、藤原頼通が一計を案じ、自邸の侍所の雑仕女の中から美人を選んで水汲みにやらせ、もし実資から引っ張り込まれそうになったら、水桶を捨てて逃げ帰るように命じた。案の定、実資はその雑仕女に手を出そうとしたが、予定通り女は水桶を捨てて逃げ帰った。後日実資が頼通を訪ねて公事について話をした際、頼通が「ところで、先日の侍所の水桶を返していただけないか」と言った所、さすがの実資も赤面し返事ができなかったという。

 

また、『古事談』には、実資と藤原教通(頼通の弟)とが遊女?香炉をめぐって鞘当てをした話も伝わっている。

 

藤原実資は藤原道長の所業に対して強い批判を書き残しているが、その一方で道長の能力?人物については高く評価しており、一方道長も実資に一目を置いていた。

 

長和元年、道長が病気になった際に実資?道綱?隆家?懐平?通任の5人が悦んでいるという噂が立てられた際に、道長は実資と道綱に限ってそういうことはないと述べて、噂を立てられた以上運を天に任せるしかないと嘆息していた実資を安堵させている(『小右記』長和元年6月17日?20日?7月21日条)[3]。一方、実資は摂政となった道長が病に倒れ一時重態となった際に「朝(朝廷)之柱石」が失われることを憂慮している(『小右記』長和5年5月10日条)[4]。

 

系譜

父:藤原斉敏

母:藤原尹文の娘

妻:婉子女王(為平親王の娘)

妻:不明(官女某)

男子:良円

妻:源頼定の乳母の娘

女子:藤原千古(藤原兼頼室)

 

養子:藤原資平(986-1067)(藤原懐平の子)

養子:藤原資高(?-?)(藤原懐平の子)

養子:藤原資頼(?-?)(藤原懐平の子)

 

脚注

^ 右大臣就任時に実資は「隠文帯?旋鈿剱」の装束で道長?頼通に拝謁している(『小右記』治安元年7月26日条)が、これは本来天皇の譲位?立后?立太子?任大臣の儀式などに限定されたもの(『西宮記』)であり、摂関への拝謁に「隠文帯?旋鈿剱」を用いるのは、道長が定めたいわゆる御堂流の新儀であった。『小右記』にはその5年前の正月2日に全く同じ行動を取った公任を故実に反して道長に媚びたと非難している。

^ ある時、実資は清涼殿の東廂で頼通を抱いて臥した夢を見、その際彼の陰茎は勃起したという(『小右記』長元2年9月24日条)

^ 朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007年) ISBN 978-4-623-04884-7 P233-234。

^ 関口力『摂関時代文化史研究』(思文閣出版、2007年) ISBN 978-4-7842-1344-3 P170-174。

 

 

 

翻译:

藤原实资(ふじわら の さねすけ),天德元年(957年)-永承元年1月18日(1046年2月26日),平安时代的公卿。藤原北家的一支小野宫流的藤原齐敏的四男。后成为祖父实赖的养子继承了小野宫流。乳名是大学丸。亦称小野宫实资。

 

继承了藤原北家嫡流的小野宫流的庞大家产,是当代精通有职故实的一流学者。在藤原道长掌权的时代,实资一向对其保持了一贯的态度,受到了世人“对权贵不阿谀奉承”的评价。最终升进到从一位右大臣,被称为“贤人右府”。留存到现在的实资的日记《小右记》成为研究这个时代的贵重资料。

 

生涯

(实资的)祖父实赖是在历史上历任摄政关白的藤原忠平的长子,村上天皇时任左大臣,冷泉天皇时任关白,圆融天皇时历任摄政。实赖的二男赖忠也作为圆融天皇、花山天皇的关白指导朝政。不过,小野宫流没能与天皇缔结外戚关系。另一方面,巧妙地跟天皇结成了外戚关系的实赖的弟弟师辅(九条流)的儿子们——伊尹、兼通、兼家(在政治上)崭露头角得以历任摄关。一条天皇即位时,兼家保持了(家族)强硬的外戚关系而担任了摄政,他的(家族)系统将政治的主导权牢牢掌握。

 

实资是参议齐敏的四男,后被祖父实赖领作养子,非常受宠而继承很多家族领地,并继承了小野宫流。

 

小野宫流虽是藤原北家的嫡系主流,但是却被作为分支的九条流夺取了摄关家的主导权。不过,一般认为小野宫流在记录资料的方面很出色,以通晓有职故实的专家而闻名,实资自实赖那里继承了庞大的记录资料。不仅学问丰富,也是众所周之的蹴鞠高手。长德3年4月17日(997年)时,作为贺茂节的余兴节目,在自宅举行蹴鞠会被披露出来(《小右记》),后世的大江匡房评价其为“当代的名手”(藤原赖辅《蹴鞠口传集》)。关于那个庞大的家族领地的事至今不明的部分很多,不过,从该期史料判明,具有相当的财力。

 

实资作为通晓有职故实的专家与资产家为人们所知,不过,掌握事物的要点,为了个人的利益和名声掩盖真实,这样的聪明人也有。

 

圆融天皇时候,天元4年(981年)(实资)任职藏人头。一条天皇的时候永祚元年(989年)时叙任参议成为公卿。

 

正历元年(990年)兼家去世,其子道隆成为关白,道兼、道长先后成为左大臣被容许内览,在与伊周(道隆的嫡子)的政治斗争中掌握了(政治)主导权,由此掌握了权柄。

 

长保元年(999年)道长的女儿彰子参内,要制作一架那时的日用器具之一的四尺屏风,便在当时的公卿名士中招募人员作屏风歌,由藤原公任担任裁判,书法家藤原行成也有作歌的兴趣。不仅仅是公卿们,连花山法皇也赠予了御作歌。此时,还只是中纳言的实资作歌(讽刺)道:“受大臣之命(作歌),为那屏风所作的歌却是谜,至今还未有耳闻。”道长(出于礼貌)也几度催促(实资作歌),(实资虽)献上和歌,但(道长却)拒绝接收。

 

长保3年(1001年)(实资)叙任权大纳言,并兼任右近卫大将。

 

宽弘8年(1011年),一条天皇驾崩,三条天皇即位了。三条天皇和道长失和,不久就每件事都争锋相对。然而很多朝臣对权臣道长阿谀奉承,天皇被孤立了,朝廷的纲纪日渐涣散。这个时候只有实资敢于致力于公平处事的立场,天皇也就渐渐变得对实资依赖起来。

 

三条天皇在东宫时代便有一位女御,她是藤原济时的女儿的娍子,但后来道长的女儿妍子参内。(三条天皇)即位后,妍子虽被立为中宫但却没有生下皇子,另一方面,娍子生下了敦明亲王。长和元年(1012年),天皇欲立娍子为皇后,不过因为忌惮道长(的权势)而难下定论,对于立后道长另有想法。然而到了立后的仪式的日子,道长(为向天皇示威)作了很让人嫌忌的事,让中宫妍子于立后仪式当日回宫。诸公卿(为讨好道长)皆去了(土御门邸迎接妍子入宫而没有参加)东三条邸(的立后仪式)。天皇派出敕使命令出席,不过,诸公卿皆嘲笑敕使(没有人听命),参议藤原正光甚至(向敕使)投掷瓦砾。实资这些天尚在病中,说:“天无二日,地无二主。”与中纳言藤原隆家一起进宫,一手承担仪式(的种种事务)。

 

三条天皇感谢实资的贤德,请实资的养子资平传达:“朕长久以来作为东宫(都在想像继位后的世情),企料登基后实情全非所想。即使立后(此等小事)亦要忌惮左大臣(道长),所出敕命亦无足轻重。实资的忠恳深可嘉许。(朕想)传达的就是今后诸事,都想与大将商议”。实资听说后非常高兴。不过,“贤明”的实资连与道长从正面对抗的事一件也没有做,至始至终只是保持了不奉承的态度。不过,三条天皇还是按照约定,将资平叙任为藏人头。(三条天皇就是这样)一边忌惮道长(逼其退位),(一方面却又不得不)过分的依赖(道长)。

 

道长与三条天皇持续对立,不久(天皇)患了失明咫尺之前的眼病,道长很强硬地逼其退位,结局是长和5年(1016年)时,以立敦明亲王为东宫作为条件让位给后一条天皇了。被推荐为担任春宫大夫之职的实资以身体衰老为由坚决辞退了。翌宽仁元年(1017年)时,三条上皇御崩,道长违反约定,用计使敦明亲王辞退了东宫之位。

 

宽仁3年(1019年),击退了刀伊的入倾的大宰权帅藤原隆家请求对部下们予以赏赐,公卿们对这件事以“各国申请的杂事”(看待)进行了(讨论)。大纳言藤原公任和中纳言藤原行成说:“他们在(传达)讨伐(命令)的敕使到达以前战斗了。因为是私斗所以不必给予赏赐。”贵族们为了维持文官(于朝政中在)统治地位,同时有看轻军事的倾向,而且隆家还是道长的政敌伊周的弟弟,因此道长也持有这种(带有明显偏见的)看法。

 

实资一方面承认了敕使到达以前就开始战斗的事有些许问题,(另一方面也)滔滔不绝的陈述了自己的意见。“敕使是不是到达了并不是问题。(因为)存在即使没有诏敕,对于建立功勋的人给予赏赐的前例。宽平6年(894年)时新罗的凶贼对马袭击的时候,岛司文室善友立刻击退了凶贼,事后给予了奖赏。这是和这次同样的事。特别是此次的事件,对外敌(而言)警卫所势单力寡,各岛上居民有一千人多被诱拐,数百人被杀。壹岐守藤原理忠也战死了。可是,大宰府立刻调动军队攻击敌人(平息了祸乱),为何却没有封赏?如果连该有的奖励都没有,今后遇事冲锋在前的勇士就不会存在了。”

 

首先,大纳言藤原齐信表示了赞同,继而公任与行成也改变了心意,终于公卿们全部表示赞同,决议给予褒奖了。同时,在当时政治上退居二线的道长也(改变了主意)。(虽然)这个时候实资是否能担任右大臣一职需要与同僚搞好关系的时期,尽管如此(实资并没有因此)随声附和、阿谀奉承而模仿(他人的意见),而是滔滔不绝地就事论事。

 

治安元年(1021年)任右大臣,兼任皇太弟傅。长历元年(1037年)叙从一位。

 

实资作为小野宫流的当主,活跃于对抗九条流的事务中。不过,晚年所生的孩子资平继承家督以来,为了保持家族领地,对道长及赖通父子提出多次申诉等,被看作对九条流的态度变得柔软的根据[1]。据说实资好象对赖通抱有非常特别的好意[2],《小右记》基本没有批判赖通的记录,而赖通也对作为政界的长老的实资保有敬意。另一方面,违反当时的惯例的是,赖通与实资共同担任着关白的职务,而藤原公季死后所空出的太政大臣一职,在实资死后赖通才得到了这个职位,赖通是实资之后才升进为左大臣的。(对于此也有实资)害怕作为太政官的表率与赖通的的传闻,因而一直任职右大臣。(“一上”通常由左大臣就任,关白及太政大臣不担任那个职务,右大臣兼任“一上”是朝廷惯例)。

 

实资与花山院的女御婉子女王大谈恋爱但没有生下孩子,晚年由于阿儿茨海默型综合症而性格变得很焦躁,抓到什么就乱摔,对于作为政治上的弟子的宇治关白赖通,常常叹息他妻子非常少。把作为弟弟权中纳言怀平的孩子的资平作为养子,不过最疼爱的孩子是嫡女千古。

 

永承元年(1046年) 90岁去世。是信仰深厚的佛教徒,不过(性格并不出世,却)喜欢在现实社会中活跃,即使去世前也没有出家。据说天寿将尽的时候,他的小野宫府第聚集了朝野上下人等放声恸哭。

 

实资的小野宫家的财产很多,但大部分都让女儿继承了,养子资平只继承了一小部分。因之,使(实资)从实赖(那里)继承来的的家族领地,在院政时期被分散瓦解了。同时(世人认为)小野宫家衰败的原因,是没有将财产交付给男系子孙,因此才异致了本族的经济上的衰微。

 

后世,实资的日记史料和有职故实的典章(合编)成为《小右记》(小野宫右大臣家记的略称)。这里现存有实资从藏人头到兼任右大臣、近卫左大将时期的日记,并保荐有庞大的礼仪的记述。同时,记下了个人的见解也很著名,(其中)有名的藤原道长的和歌“この世をば…”(即“此世即我世,如月满无缺”这首和歌)也是由实资的《小右记》记录流传下来的。

 

小故事

 

据《古事谈》的小故事记载着性格不和悦的实资好象很好色的故事。

 

实资的宅邸小野宫邸的北面正前方有一口非常好的井,(居住在)附近的下女经常在这里汲水。实资对这些下女其中的一个下女十分中意,常不顾拥挤去不论谁都可以在的房间里(译者:也许是侍女的房间)。既然如此,藤原赖通想出一条计策,从自宅侍所的作杂事的侍女中逃选美人去汲水,命令说如果实资拉住不放,就扔掉水桶逃回来。果然,实资打算对那个作杂事的侍女出手,不过,照预定那样女人扔掉水桶逃跑返回了。据说事后实资因公事(来到赖通宅邸)访问,赖通说:“不知何处可以找出前日(我家)侍所的水桶,可以还给我吗?”就连实资也脸红回答不能。

 

另外《古事谈》中还有实资与藤原教通(赖通的弟弟)点上香炉与游女玩乐的事。

 

藤原实资对藤原道长的所作所为留下了强硬的批判,不过,另一方面关于道长的能力有着很高的评价,另一方面道长也对实资评价很高。

 

长和元年,道长患病之际,世间流传着实资、道纲、隆家、怀平、通任这5人感到很高兴。道长申诉说实资与道纲等并没有作那样的事,使本来对事态叹气,只有听任天意的实资放下心来(《小右记》长和元年6月17日20日——7月21日)[3]。另一方面,实资对成为摄政的道长因病倒下,生命垂危之际作出了将失去“朝廷之柱石”的忧虑(《小右记》长和5年5月10日条)[4]。

 

系谱

父:藤原齐敏

母:藤原尹文的女儿

妻:婉子女王(为平亲王的女儿)

妻:不明(某官员女儿)

男子:良圆

妻:源頼定的乳母的女儿

女子:藤原千古(藤原兼頼妻室)

 

养子:藤原資平(986-1067)(藤原怀平之子)

养子:藤原資高(?-?)(藤原怀平之子)

养子:藤原資頼(?-?)(藤原怀平之子)

 

注解

[1]就任右大臣时实资穿的装束是“隐文带、旋钿剑”晋谒道长、赖通 (《小右记》治安元年7月26日),这个装束本来是在天皇让位、立后、立东宫、就任大臣的仪式等场合限定了的装束(《西宫记》),穿着“隐文带、旋钿剑”对摄关的谒见,是道长决定了的所谓御堂流的新仪式。与5年前正月2日的作出相同行动的公任同样,实资在《小右记》中同样表示非难。

 

[2]实资做了在清凉殿东厢抱着赖通睡觉的梦,据说那个时候他的[码赛克]起了(《小右记》长原2年9月24日)

 

[3] 朧谷寿『藤原道长』(ミネルヴァ书房,2007年)ISBN 978-4-623-04884-7 P233-234。

 

[4]关口力『摄关时代文化史研究』(思文阁出版,2007年)ISBN 978-4-7842-1344-3 P170-174。

 

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