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藤原妍子 翻译  

2009-04-23 12:05:04|  分类: 观后感 |  标签: |举报 |字号 订阅

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藤原妍子(ふじわら の けんし(きよこ)、正暦5年3月(994年4月) - 万寿4年9月14日(1027年10月16日))は、摂政藤原道長の次女。母は源倫子。第67代三条天皇中宮。別名枇杷殿皇太后。子女は禎子内親王(後朱雀天皇皇后)。同母の兄弟に頼通?教通、上東門院彰子?威子?嬉子。

 

寛弘元年(1004年)11月正四位下、尚侍に任官。同年12月従三位。同7年(1010年)1月従二位、2月皇太子居貞親王(のちの三条天皇)に入内。同8年(1011年)、居貞親王が即位し女御宣下を受ける。同9年(1012年)、中宮に冊立。長和5年(1016年)三条天皇退位、寛仁元年(1017年)三条天皇崩御。同二年(1018年)、皇太后。万寿4年9月14日(1027年10月16日)出家、同日崩御。享年34。

 

妍子が入内した時、先帝一条天皇はまだ存命であったが、姉彰子所生の敦成親王(後一条天皇)が次の皇太子に確定していた。順調にいけば道長がいずれ天皇の外祖父?摂政となることは疑いないものの、その前にこれまで結びつきの弱かった三条天皇の即位を迎えるにあたって、道長は後宮制覇第二の布石として妍子を三条天皇の下に送り込んだのである。天皇には東宮時代からの妃娍子(藤原済時女)との間に既に四男があったから、妍子の使命も姉彰子同様に男御子を産むことであったのは言うまでもない。もちろん三条天皇が即位すると、妍子も早々と中宮に冊立された。

 

しかし長和2年(1013年)、妍子が出産したのは女御子(禎子内親王、のちの陽明門院)であった。前年娍子の皇后冊立を巡ってぎくしゃくしていた道長と三条天皇の間は、妍子に皇子が誕生することで関係修復を期待されていたのだが、それも無に帰してしまい、道長はこの内親王誕生に大層不機嫌であったという。(『小右記』) 結局その後も皇子は生まれず、三条天皇は道長の圧力に押し切られて譲位、ほどなく崩御した。妍子の皇子が帝位に就く可能性はこれでなくなり、また皇后娍子所生の敦明親王が三条天皇の没後皇太子を辞退してしまったこともあって、冷泉天皇系の男子の皇統は完全に将来を閉ざされることになった。(ただし女系は妍子腹の禎子内親王を経て後三条天皇へと受け継がれた)。

 

妍子は道長の娘達の中でも特に美しく、また妍子に仕える女房達の衣装が贅沢すぎることで兄頼通が叱責したとの逸話もあり、やや派手好きな性格であったらしい。しかし皇太后とはいえ、皇子の出産なく終わった彼女は、もはや表舞台に立つ存在ではなくなっていた。その後妍子は一人娘禎子内親王と共に三条天皇から伝領した枇杷殿に住み、万寿4年(1027年)3月に禎子内親王が東宮敦良親王(のちの後朱雀天皇)に入内するのを見届けて、その半年後に病で崩じた。華美を好むあまりに身内の眉をひそめさせることもあった妍子だが、亡くなる間際に身を清め、正式な受戒を済ませての潔い臨終であり、道長は末娘嬉子に続く次女の死に「老いた父母を置いてどこへ行かれるのか、私達も供をさせてくれ」と泣いて取り縋ったと伝えられる。(『栄花物語』)

 

翻译:

藤原妍子(ふじわら の けんし/きよこ)正历5年3月(994年4月) - 万寿4年9月14日(1027年10月16日),摄政藤原道长的次女,母亲是源伦子。第67代三条天皇中宫,別名枇杷殿皇太后。女儿是禎子内亲王(后朱雀天皇皇后)。同母兄弟有宇治殿赖通、大二条殿教通、上东门院彰子、大中宫威子、皇太后嬉子。

 

宽弘元年(1004年)11月叙正四位下,任职尚侍。同年12月升到从三位。同7年(1010年)1月升进到从二位、2月入皇太子居貞亲王(即三条天皇)后宫。同8年(1011年)居贞亲王继位,妍子同时受封女御。同9年(1012年)册立为中宫。长和5年(1016年)三条天皇退位,宽仁元年(1017年)三条天皇御崩。同二年(1018年)受封皇太后。万寿4年9月14日(1027年10月16日)出家,并于当日御崩,享年34岁。

 

妍子参内时,先帝一条天皇尚且在世,长姐彰子所生的敦成亲王(后一条天皇)被确认为次期的东宫。道长因为是天皇的外祖父才成为摄政,(因此保持与天皇的外戚关系非常重要),在与道长关系并不亲密的三条天皇继位后,以后宫制覇为目标的道长将妍子送入三条天皇后宫作为第二个部局。天皇在东宫时代就与女御娍子(藤原济時女)之间有了四个皇子,妍子的使命与姐姐彰子同样是生育皇子,但结果却事与愿违。之后三条天皇继位,妍子(虽未生育皇子却也)被册立为中宫。

 

但是长和2年(1013年)妍子生下了皇女(禎子内亲王、即陽明門院)。前年因为娍子的立后仪式而使道长与三条天皇关系更加紧张,本期望妍子生下皇子可使双方关系稍稍缓和,可是事情并不如愿,道长对内亲王的诞生十分不满(据《小右记》)。结局是最终(妍子)也没有生下皇子,三条帝在道长的威压下被迫让位,之后御崩。妍子生下的皇女完全与帝位无缘,而皇后娍子所生的敦明亲王在三条天皇去世后辞退了东宫之位,由此冷泉天皇系的男子的皇族血统完全继绝,不过女系由妍子所生的禎子内亲王经后三条天皇继承延续下去。

 

妍子是道长的女儿中姿容最为美丽的,有传闻说侍奉在妍子身边的女房们也因衣装太过铺张,而被兄长赖通斥责的逸话,其性格稍显浮华。虽说身为皇太后,但是因为没有生下皇子,在政治舞台上始终是个没有存在感的人。之后妍子带着唯一的女儿一起迁居到三条天皇留下来的领地的枇杷殿居住。万寿4年(1027年)禎子内亲王入东宫敦良亲王(即后朱雀天皇)后宫,半年后(妍子)便因病去世了。因为喜好浮华而过分看重仪表,却对身体的不适视而不见,因为害怕死后身体的不洁,乃在临终前净身受戒。道长在继末女嬉子之后迎来了次女的死亡,有传说(道长曾伤心)泣泪而下说:“抛下衰老的父母独自而行,希望(将来)能将我们一起供奉。”(《荣花物语》)

 

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