注册 登录  
 加关注
   显示下一条  |  关闭
温馨提示!由于新浪微博认证机制调整,您的新浪微博帐号绑定已过期,请重新绑定!立即重新绑定新浪微博》  |  关闭

冷露非秋剧情吐槽 分站1

主站http://sakuramachi.lofter.com/

 
 
 

日志

 
 
关于我

原创文字及图片禁止无授权转载及用于商业活动,谢谢合作!版权所有,盗用必究! 《剧情+吐嘈》系列与《布袋戏同人》系列,文章版权归我所用有,不可商用,截图来源于霹雳布袋戏及金光布袋戏,其他引用图片及转载文章归各自作者所有。禁止无授权转载,盗用必究!

网易考拉推荐

藤原 頼通 试译  

2009-04-14 12:22:45|  分类: 观后感 |  标签: |举报 |字号 订阅

  下载LOFTER 我的照片书  |

 

原文:

藤原 頼通(ふじわら の よりみち、正暦3年(992年) - 承保元年2月2日(1074年3月2日))は、平安時代の公卿。従一位·摂政·関白·太政大臣·准三宮。太政大臣藤原道長の長男。幼名は田鶴。通称宇治殿。法名は蓮花覚、後に寂覚。

 

父道長から若くして後一条天皇の摂政を譲られ、その後見を受ける。父の死後は朝政の第一人者として後朱雀天皇·後冷泉天皇の御代に渡り、関白を50年の長きに渡って務め、父道長と共に藤原氏全盛時代を築いた。現代に残るその栄華の象徴が頼通が造営した平等院鳳凰堂である。

 

しかし、天皇の后にした娘が男子に恵まれなかった事や刀伊の入寇?平忠常の乱?前九年の役など戦乱が相次ぎ、朝廷内部での絶対的な権勢とは裏腹に内外においてはその政治的基盤を揺るがせる事態が相次ぎ、晩年には頼通と疎遠な後三条天皇が即位して、摂関家は衰退へ向かい、やがて院政と武士の台頭の時代へと移ることになる

 

生涯

 

道長存命時

一条天皇のもとで内覧左大臣として朝政を主導し、権勢を振るった父道長には左大臣源雅信の娘倫子と安和の変で失脚した左大臣源高明の娘明子の二人の妻がいた。倫子が正妻とみなされ、倫子の子の頼通·教通は、明子の子の頼宗、能信らより昇進の面で優遇され、また娘も倫子の子が皇妃とされた。

 

長徳4年(998年)童殿上、長保5年(1003年)12歳で元服し頼通と名乗り、正五位下に叙せられる。寛弘3年(1006年)、15歳にして従三位に叙せられ公卿に達した。累進して長和2年(1013年)に権大納言に任ぜられる。

 

村上天皇の第七皇子具平親王が娘の隆姫女王を頼通の妻にと申し入れた、道長はこの高貴な姫との縁談を「男は妻がらなり」と言って喜んだ。隆姫は美女で文才もあり、頼通と仲睦まじかったが、子が生まれなかった。

 

一条天皇の後を継いだ三条天皇と道長とは確執があり、天皇が失明寸前の眼病を患ったことから、道長はしきりと譲位を迫っていた。東宮(皇太子)は道長の長女彰子の生んだ敦成親王であった。天皇は道長を憎み譲位に応じようとしなかった。『栄花物語』によると、天皇は道長を懐柔すべく頼通への皇女禔子内親王の降嫁を申し出た。道長は同意したが、隆姫のみを愛する頼通はこの縁談を憂いた。これに対して道長は「男子がなぜ一人の妻で止まるのか。しかも子がないのだから、広く継嗣を求めよ」と叱咤して無理強いに縁組しようとさせたが、やがて頼通は重病となり、加持調伏の結果、具平親王の怨霊が出たため、この結婚は止み沙汰になったという。

 

同5年(1016年)、結局、三条天皇は道長の圧力に屈して、敦成親王に譲位した(後一条天皇)。外祖父の道長が摂政となった。翌同6年(1017年)頼通は内大臣に進むとともに、父に代わって摂政の宣下を受け藤原氏長者も譲られた。頼通は僅か26歳であり、最年少の摂政だった。道長は同年末に太政大臣に上るが、翌年には辞して、前太政大臣として若い頼通を後見することで後継体制を固めた。

 

寛仁3年(1019年)関白となり、治安元年(1021年)に左大臣に転じた。この間に父の道長は後一条天皇に三女の威子を入内させ中宮となし、また東宮敦良親王には末子の嬉子を入内させ、嬉子は親仁親王(後の後冷泉天皇)を生み、将来への布石を打った。

 

寛仁3年(1019年)に道長は出家したが依然として実権を握り、頼通もその意向に従ってむしろ大事にはその判断を仰いでいる。道長が公卿たちの前で関白の頼通を罵倒することもあったといい、治安3年(1023年)と万寿2年(1025年)に不始末から父より一時勘当の処分を受けている。

 

頼通は有職故実に通じた当代の学識者だった小野宮流の藤原実資に師事して親交を結び、道長への批判者だった実資も頼通には好意を持っていた。

 

 

 

道長没後

万寿4年(1027年)道長が死去した。その半年後の長元元年(1028年)に関東で平忠常の乱が起こる。その鎮圧には3年を要し、そのため主戦場の房総地方がひどく荒廃した。この乱を鎮圧したのが源頼信であり、これを契機に清和源氏が関東に勢力を持ち、武士が本格的に表舞台に登場するようになる。

 

道長亡き後、頼通は自立して独自の権力確立に努め、同2年(1029年)には太政大臣藤原公季の薨去に伴い一座となる。

 

 

同9年(1036年)後一条天皇が崩御し、同母弟の後朱雀天皇が即位した。頼通は引き続き天皇の外叔父として関白を務め、朝廷の権勢は頼通に集中した[1]。しかしながら、「一家三立后」を実現した道長と異なり、頼通は子女に恵まれず、やむなく正妻隆姫の縁で敦康親王の娘の嫄子を養女として後朱雀天皇に入内させて中宮となした。

 

後朱雀天皇は道長の娘の嬉子を妻としたが、嬉子は東宮に立てられた親仁親王を生んですぐに死去しており、別に尊仁親王を生んだ禎子内親王(三条天皇の皇女)を皇后に立てていた。頼通は嫄子による皇子誕生に期待したが、嫄子は皇女を生んだのみで死去してしまった。弟の教通も対抗して娘の生子を入内させるが皇子を生むことはなかった。

 

寛徳2年(1045年)、後朱雀天皇は危篤に陥り、次代の東宮に尊仁親王を望んだ。尊仁親王は頼通は勿論藤原氏を外戚としないこと、また親仁親王に男子が誕生した際に皇位継承を巡って紛糾することを恐れて、頼通は東宮を立てるのはまだ時期尚早であると反対した。これに対し頼通の異母弟の権大納言能信(源明子の子)が天皇に対して懸命に尊仁親王の立太子を懇願し、遂に天皇は決意して尊仁親王を東宮に冊立するとの遺命を残して崩御した(『愚管抄』『今鏡』)。

 

親仁親王が即位し(後冷泉天皇)、尊仁親王が東宮に立てられた。頼通は東宮には協力せず[2]、永承5年(1050年)に一人娘の寛子を入内させ皇后となし、皇子誕生に望みを繋いだがやはり皇子を生むことはなかった。

 

同6年(1051年)、奥州で前九年の役が勃発する。地方の世情が不安になる中、道長を受け継ぎ長年関白を務めた頼通の権勢は表面的には衰えず、御所の傍に巨大な高陽院を造営し、同7年3月28日(1052年)には道長の別荘であった宇治殿を現代に残る壮麗な平等院鳳凰堂に改修した。

 

この頃荘園の増加によって国家財政が危機的状態にあり、その整理が必要とされていた。それら荘園の主たる領主が頼通ら権門であった。頼通は長久元年(1040年)、寛徳2年(1045年)、天喜3年(1055年)に荘園整理令に着手するが、結果的には権門擁護策に終わる(増加の抑制の成果については肯定的な見方もある)。

 

康平4年(1061年)、70歳になった頼通は太政大臣宣下を受け位人臣を極めた。翌年には父の例に倣い太政大臣を1年足らずで辞している。治暦3年(1067年)には関白を辞して、准三宮を宣下された。後任の関白には同母弟の教通が任じられた。

 

晩年

同4年(1068年)後冷泉天皇が崩御し、尊仁親王が即位した(後三条天皇)。新帝は藤原氏とは直接の血縁がなく、35歳と壮年で25年の長い東宮時代を耐えた天皇は意欲的に国家財政の改革に着手し、有名な延久の荘園整理令を出した。藤原氏ら権門の荘園も審査の対象たるを逃れなかった。『愚管抄』は記録所が頼通にも文書提出を求めたとき、「そんなものはないので全て没収しても構わない」と答え、頼通の荘園のみ文書の提出を免除されたという話を伝えているが、実際には頼通の荘園も文書を提出した事や、その審査の過程で規定外の荘園が没収された事等が、孫の師通の日記『後二条師通記』に記されている。

 

延久4年(1072年)4月に出家して宇治に閉居した。同年12月、後三条天皇は在位4年で貞仁親王に譲位した(白河天皇)。上皇となり新帝を後見して院政を意図していたとも云われるが、僅か半年ほどで翌年5月に崩御した。後三条天皇とは東宮時代から対立した頼通だが、賢主の早世を嘆息したという。

 

若い頃は長者風の温和な性格だった頼通だが、長年権力を持ち続けると豪華な奢侈を好み権勢に固執するようになったという。『古事談』によると頼通は実子師実に摂関を伝えることを強く望んだが、頼通の次の摂関の職は教通に伝えるべきとの道長の遺言を理由に上東門院(藤原彰子)に拒絶され、やむを得ず教通に譲った。この際、次の摂関は師実に伝えるよう関白となった弟の教通に約束させたが、教通は一向に実行しようとしなかったため「自分は師実が職(摂関)にあることを目にしなければ、冥することができない」と言ったところ、教通は「私の勝手で、できることではない」と答え、頼通はひどく恨んだという。

 

延久6年(1074年)、頼通は83歳の長寿をもって死去した。摂関政治の全盛期をともに担ってきた姉の上東門院彰子、弟教通も同年から翌年にかけて相次いで死去、白河天皇が譲位した後に開始した院政の時代へと移っていく。

 

当時の例に漏れず頼通も日記を書いていた。しかし、弟の教通?頼宗の日記と同じく散逸してしまった。『院号定部類記』、『改元部類』、『園太暦』に「宇治殿御記」「槐記」として逸文が収められている。

 

官歴

※日付=旧暦

 

年紀 年齢 事歴

長保5年(1003年) 12歳 2月20日、元服。正五位下に叙位。昇殿と禁色を許される。

2月28日、侍従に任官。

 

月日不詳、右近衛少将に転任。

 

長保6年(1004年) 13歳 1月7日、従四位下に昇叙し、右近衛少将如元。

1月24日、近江介を兼任。

 

寛弘2年(1005年) 14歳 10月22日、従四位上に昇叙し、右近衛少将如元。

寛弘3年(1006年) 15歳 3月4日、従三位に昇叙し、右近衛少将如元。

9月2日、正三位に昇叙し、右近衛少将如元。

 

寛弘4年(1007年) 16歳 1月28日、春宮(のちの三条天皇こと、居貞親王)権大夫に転任。

寛弘5年(1008年) 17歳 10月16日、従二位に昇叙し、春宮権大夫如元。

寛弘6年(1009年) 18歳 3月4日、権中納言に転任し、左衛門督を兼任。春宮権大夫如元。

寛弘8年(1011年) 20歳 6月9日、正二位に昇叙し、権中納言?左衛門督如元。

6月13日、春宮権大夫如元。

 

長和2年(1013年) 22歳 6月23日、権大納言に転任し、春宮権大夫如元。

長和4年(1015年) 24歳 10月27日、左近衛大将を兼任。

長和5年(1016年) 25歳 1月29日、春宮権大夫を停む。

長和6年(1017年) 26歳 3月4日、内大臣に転任。 

3月6日、左近衛大将如元。  

 

3月16日、摂政宣下。内大臣?左近衛大将如元。

 

3月22日、左近衛大将を辞任。

 

寛仁3年(1019年) 28歳 12月22日、摂政を止め、関白宣下。内大臣如元。

寛仁5年

改元して治安元年(1021年)

 30歳 1月7日、従一位に昇叙し、関白?内大臣如元。

7月25日、左大臣に転任し、関白如元。

 

8月10日、太政大臣(藤原公季)の下に列する旨の宣旨あり。

 

康平3年(1060年) 69歳 7月17日、左大臣を辞し、関白如元。

康平4年(1061年) 70歳 12月21日、太政大臣宣下。関白如元。

康平5年(1062年) 71歳 9月2日、太政大臣を辞す。

康平7年(1064年) 73歳 12月13日、藤原氏長者を辞す。

治暦3年(1067年) 76歳 4月16日、関白を辞し、准三宮宣下。

延久4年(1072年) 81歳 4月29日、出家。法名:蓮華覚、のち、寂覚

延久6年(1074年) 83歳 2月2日、薨去。

 

 

 

系譜

父:藤原道長

母:源倫子 - 源雅信女

妻:隆姫女王 - 具平親王女

養女:藤原嫄子(1016-1039) - 敦康親王女、後朱雀天皇中宮

妻:対の君 - 源憲定女

長男:藤原通房(1025-1044)

妻:藤原祇子 - 藤原頼成女[3]

次男:橘俊綱(1028-1094) - 橘俊遠の養子

三男:覚円(1031-1098)

四男:藤原定綱(1032-1092) - 藤原経家の養子。名は家綱ともいわれる

五男:藤原忠綱(?-1084) - 藤原信家の養子

長女:藤原寛子(1036-1127) - 後冷泉天皇皇后

六男:藤原師実(1042-1101)

なお、正室隆姫の実弟源師房を養子もしくは猶子として後にその子である源俊房?仁覚兄弟をも養子にしている。また、弟?教通の子である藤原信家を養子として後に自分の実子である忠綱をその養子とした。師房と信家は実際に頼通の元で育てられている。更に弟?頼宗の子である藤原俊家と源俊賢の子である源顕基をそれぞれの元服時に養子としている。また、『小右記』などによれば実妹の藤原嬉子を養女とした事が記されているが、これは彼女が東宮敦良親王の元に入内したときに父親である道長が既に出家していた事を憚ったからであると言われている。

 

 

参考文献

朧谷寿 『藤原道長―男は妻がらなり』(ミネルヴァ書房、2007年)ISBN 4623048845

朧谷寿『日本の歴史6 王朝と貴族』(集英社、1991年)ISBN 4081950067

土田直鎮『日本の歴史5 王朝の貴族』(中央公論社、1973年)ISBN 4122000610

竹内理三『日本の歴史6 武士の登場』(中央公論社、1973年)ISBN 4122044383

北山茂夫『藤原道長』(岩波書店、1970年)

史料

大日本史

 

脚注

^ 後朱雀天皇の蔵人頭で政治的には頼通と対立する立場にあった藤原資房も「顕官重職は、たゞ執柄(=頼通)の心に随ふべし」(『春記』長暦2年12月7日条)、「いま関白の第は、これ朝廷に異ならず」(『春記』長暦3年10月12日条)、と評した。

^ 頼通は東宮に代々受け継がれてきた「壺切の剣」について、藤原家の娘所生の東宮の持ち物であるとして、尊仁親王には渡さなかった(『江談抄』)。

^ 藤原祇子は出生がはっきりせず、藤原頼成女とも具平親王女とも言われる。藤原頼成は具平親王の落胤で藤原伊祐の養子とされたが、祇子も同様に具平親王の落胤で兄頼成の養子となったともされる(『栄花物語』)。具平親王女として「源祇子」と記した資料もある。

 

 

 

 

 

翻译:

藤原赖通(ふじわら の よりみち,正历3年(992年)-承保元年2月2日(1074年3月2日)),是平安时代的公卿。官至从一位·摄政·关白·太政大臣·准三宫。太政大臣藤原道长的长子。乳名田鹤。通称宇治殿。法名莲花觉,后称寂觉。

 

赖通年轻时,便接受父亲道长让出的后一条天皇的摄政之位,并接受父亲的辅佐。父亲死后作为后朱雀天皇及后冷泉水天皇的统治期间朝政的第一人,在50年间担任关白,与父亲道长一起建立了藤原氏全盛时代。现代还留有的那个时代荣华的象征是赖通营造的平等院凤凰堂。

 

但是,成为天皇的皇后的女儿没有生下皇子的事与刀伊的入侵?平忠常之乱?前九年的战乱相继发生。而其在朝廷内部绝对的政治权势,却不断受到朝廷内外相继发生的事态而有所动摇。晚年时,与赖通疏远的后三条天皇即位,摄关家开始步向衰退。不久,政权开始向院政和武士的抬头的时代转移。

 

生涯

 

道长生前

 

与作为一条天皇朝政中的左大臣,并主动担任了内览之职,施展了权势的父亲道长左大臣娶了源雅信的女儿伦子一样,又娶了在安和之变中失势的左大臣源高明的女儿明子,二位妻子(都是在权利斗争中下嫁给她们的丈夫的)。伦子被看作正妻,生下了孩子赖通与教通,而明子生下了孩子赖宗与能信,在表面上的官位升进都有优厚待遇,而且伦子的女儿也得到了皇妃的身份。

 

长德4年(998年)成为殿上童,长保5年(1003年) 12岁时元服并被命名为赖通,叙正五位下。宽弘3年 (1006年),15岁时便叙位从三位,达到公卿的水平。长和2年(1013年)累官至权大纳言。

 

赖通与村上天皇的第七皇子具平亲王的女儿隆姬女王成为夫妻,道长称赞与这位高贵的姬君的结缘为“男人理想的妻子”,感到很高兴。隆姬女王姿容出众也有文才,与赖通关系和睦。不过,两人之间却没有孩子。

 

继一条天皇之后的三条天皇与道长各自固执己见,道长便以天皇患失明症为借口,逼迫其让位。东宫是道长的长女彰子所生的敦成亲王。天皇对于道长逼其退位的事非常憎恨。据《荣华物语》称,天皇对道长使用怀柔政策,提出了将皇女禔子内亲王下嫁给赖通。道长同意了,深爱赖通的隆姬女王对这门亲事很忧虑。对此道长以“男子怎么可以只有一位妻子为理由,因为没有孩子所以(才会这样),应该使后嗣繁荣”进行申斥。据说因为不久赖通重病,加持调伏的结果是,具平亲王的怨灵作祟,于是(与隆姬女王)这个婚姻被命令终止了。

 

同5年(1016年),结果,三条天皇迫于道长的压力,让位给敦成亲王(即后一条天皇)。外祖父道长成为了摄政。翌同6年(1017年)赖通升进为内大臣的同时,接受父亲继任摄政的宣下与藤原氏长者的位置。赖通当时仅仅26岁,是最年少的摄政。道长同年年末任太政大臣。不过,由于翌年辞退的关系,作为前太政大臣辅佐年轻的赖通的事件坚固了继任体制。

 

宽仁3年(1019年)任关白,在治安元年(1021年)时转变了左大臣。在此期间父亲道长所生的三女威子参内成为后一条天皇的中宫,且道长的末女嬉子参内东宫(敦良亲王),嬉子生下了亲仁亲王(即后冷泉天皇),为将来的将来的布局打下了基础。

 

宽仁3年(1019年)道长虽然出家但仍掌握实权,赖通也遵从父命凡事请示。另外也有有道长在众公卿面前痛骂关白赖通的事,治安3年(1023年)和万寿2年在(1025年)时因不检点,受到父亲断绝父子关系的处分。

 

赖通师从于当时精通有职故实的学识者的小野宫流的藤原实资,并与之亲密的交往,实资是道长的批判者,但对赖通也有着好意。

 

道长死后

 

万寿4年(1027年)道长去世。在那半年后的长原元年(1028年)关东发生了平忠常之乱。对于那个镇压花费了3年,为此主战场的穗子等被严重荒废了。镇压了这个叛乱的是源赖信,以此为契机清和源氏保持了关东的势力,武士从此真正地在表面舞台上变得登场。

 

道长故后,赖通努力的保持手中独一的权力与同2年(1029年)太政大臣藤原公季节的逝世一起灭亡。

 

同9年(1036年)后一条天皇驾崩,其同母弟后朱雀天皇即位。赖通以作为天皇的外叔父的身份被任命为关白,朝廷的权势被赖通集中到手中[1]。然而,与实现了「一家三立皇后」的道长不同,赖通很少惠及子女,只是将敦康亲王的女儿嫄子作为正妻隆姬女王的继女,送入后朱雀天皇成为中宫。

 

后朱雀天皇把将道长的女儿嬉子作为妻子。不过,嬉子生下被立为东宫的亲仁亲王就去世了,便立了生下尊仁亲王的祯子内亲王(三条天皇的皇女)为皇后。赖通期待嫄子能生下皇子,但是嫄子却只生下皇女便去世了。其弟教通为与之对抗也将女儿送入宫中,后诞下皇子。

 

宽德2年(1045年),后朱雀天皇病情危笃,次代的东宫尊仁亲王希望继位。尊仁亲王与藤原氏没有亲戚关系,赖通当然害怕藤原氏失去外戚的地位。另亲仁亲王的男子诞生的时候却围绕皇位继承发生了纠纷,赖通以立东宫尚早而持反对意见。对此赖通的异母弟的权大纳言能信(源明子之子)拼命恳求天皇立尊仁亲王为东宫,遂使天皇终下决心,于驾崩前发布了把尊仁亲王立为东宫遗命 (《愚笨管抄》《今镜》)。

 

亲仁亲王(即后冷泉天皇)即位后,尊仁亲王被立为东宫。赖通与东宫相处不协[2],永承5年(1050年),赖通让独生女宽子参内,虽没有生下皇子却被立为皇后。希求于王子的诞生而皇子的出生也并未间断。同6年(1051年),在奥州前九年的役爆发。各地方的世情陷入不安中,继承道长多年担任关白的赖通的权势表面性不衰弱,在御所附近营造了规模宏大的高阳院,同7年3月28日(1052年),作为道长的别墅的宇治院的别院——壮丽的平等院凤凰堂开始修建了。

 

近来根据庄园的增加而对国家财政形成了危机,对此处理被认为是必要的。那些庄园的主要的领主是赖通们权门。赖通于长久元年(1040年),宽德2年(1045年),在天喜3年(1055年)开始实施庄园处理令的,结果是因权门拥护策略而(使处理令)终止了 (增加的抑制的成果也有肯定性的看法)。

 

康平4年(1061年),已经70岁的赖通受到太政大臣宣下决定了位于人臣极位的地位。翌年仿效父亲的例子1年辞任太政大臣。在治日历3年(1067年)时辞关白,享受准三宫待遇。后任的关白同母弟教通担任。

 

晚年

同4年(1068年)后冷泉水天皇驾崩,尊仁亲王即位了(后三条天皇)。新帝是与藤原氏没有直接的血缘,35岁壮年继位的天皇忍耐了25年之长的皇太子时代,以高涨的热情开始国家财政的改革,发出有名的延久庄园处理令。藤原氏权门的庄园也没逃脱而成为审查的对象。《愚管抄》记录了赖通因为没有文件可提交的时候,回答说“因为没有那样的东西全部可以没收,传说赖通的庄园因没有提出文书而被免除审查的说法。不过实际赖通的庄园也提出了文件,那个审查的过程,除规定外的庄园都被没收了的事情,被孙子师通的日记《后二条师通记》记下。

 

延久4年(1072年)4月出家后闭居于宇治院。同年12月,后三条天皇在位4年后让位给贞仁亲王(白河天皇)。上皇让位后新帝与院政的政见时常相左而关系破裂,不过,仅仅半年后翌年5月驾崩了。与后三条天皇从东宫时代就开始对立的赖通,据说因贤主的夭折叹气了。

 

年轻的时候富有温和的长者之风性格的赖通,因长年持有权力而养成了固执及喜好于豪华奢侈的习气。据《古事谈》记载,赖通非常期盼亲子师实成为摄关,不过,在赖通之后的摄关教通以道长的遗言作为理由,而奏请东门院(藤原彰子)拒绝了,因此不得不让位于教通。这时,成为了关白的教通保证会将关白之位传给师实。不过,据说教通丝毫不打算实行诺言,使赖通非常怨恨。

 

延久6年(1074年),赖通于83岁的高寿去世了。一同肩负了摄关政治的全盛期的姐姐上东门院彰子,弟弟教通从同年到翌年也相继去世,白河天皇让位之后开始向院政时代转移。

 

从当时来说不如意料的话赖通也在写日记。可是,弟弟的教通与赖宗的日记同样散逸了。《宇治殿御记》《槐记》作为逸文被收录到《院号定部类记》,《改元部类》,《园太日历》。

 

官历

※日期=旧历

 

年纪 年龄 事历

长保5年(1003年) 12岁 2月20日、元服。叙位正五位下。允许升殿、着禁色。

2月28日、任侍从。

 

月日不详、转任右近卫少将。

 

长保6年(1004年) 13岁 1月7日、叙从四位下、任右近卫少将如旧。

1月24日、兼任近江介。

 

寛弘2年(1005年) 14岁 10月22日、叙从四位上、任右近卫少将如旧。

寛弘3年(1006年) 15岁 3月4日、叙从三位、任右近卫少将如旧。

9月2日、俟正三位、任右近卫少将如旧。

 

宽弘4年(1007年) 16岁 1月28日、转任春宮(居貞親王,即三条天皇)权大夫。

宽弘5年(1008年) 17岁 10月16日、叙从二位、任春宮权大夫如旧。

宽弘6年(1009年) 18岁 3月4日、转任权中纳言、兼任左卫门督。任春宫权大夫如旧。

宽弘8年(1011年) 20岁 6月9日、叙正二位、任权中纳言及左卫门督如旧。

6月13日、春宮权大夫如旧。

 

长和2年(1013年) 22岁 6月23日、转任权大纳言、春宫权大夫如元。

长和4年(1015年) 24岁 10月27日、兼任左近卫大将。

长和5年(1016年) 25岁 1月29日、辞任春宮权大夫。

长和6年(1017年) 26岁 3月4日、转任内大臣。 

3月6日、左近卫大将如旧。  

 

3月16日、摄政宣下。任内大臣及左近卫大将如旧。

 

3月22日、辞任左近卫大将。

 

宽仁3年(1019年) 28歳 12月22日、停止摂政一职、关白宣下。任内大臣如旧。

宽仁5年  

改元治安元年(1021年)

 30岁  1月7日、叙从一位、任关白及内大臣如旧。

7月25日、转任左大臣、关白如旧。

 

8月10日、藤原公季任职太政大臣。

 

康平3年(1060年) 69岁 7月17日、辞任左大臣、関白如旧。

康平4年(1061年) 70歳 12月21日、太政大臣宣下。関白如旧。

康平5年(1062年) 71歳 9月2日、辞任太政大臣。

康平7年(1064年) 73歳 12月13日、辞任藤原氏氏長者。

治历3年(1067年) 76歳 4月16日、辞任関白,准三宮宣下。

延久4年(1072年) 81歳 4月29日、出家。法名:莲华覚、后改寂覚

延久6年(1074年) 83歳 2月2日、故去。

 

系谱

父:藤原道長

母:源伦子 - 源雅信女

妻:隆姫女王 - 具平親王女

養女:藤原嫄子(1016-1039) - 敦康親王女、后朱雀天皇中宮

妻:対之君 - 源宪定女

長男:藤原通房(1025-1044)

妻:藤原祇子 - 藤原頼成女[3]

次男:橘俊纲(1028-1094) - 橘俊远的养子

三男:覚圆(1031-1098)

四男:藤原定纲(1032-1092) - 藤原经家的养子。后改名为家纲。

五男:藤原忠纲(?-1084) - 藤原信家的养子

長女:藤原宽子(1036-1127) - 后冷泉天皇皇后

六男:藤原师实(1042-1101)

 

其中,正室隆姬女王的弟弟源师房的养子或犹子,之后作为儿子的源俊房、仁觉兄弟作为养子。还有,弟弟教通的儿子藤原信家的养子在之后作为自己儿子的忠纲也曾是养子。师房与信家实际上是由赖通来抚育的。更有甚者弟弟赖宗的儿子藤原俊家及源俊贤的儿子源显基在元服前也是由赖通养育的。另外,《小右记》还记载有把妹妹嬉子作为养女的事情,虽然父亲道长出家了但还是忌惮其还是送此女后来入东宫敦良亲王后宫。

 

注解:

1、后朱雀天皇的藏人头藤原资房当时与赖通对立,曾说过“显官重职全凭执柄赖通心意”(《春记》长历2年12月7日条),“现在关白的宅邸,与朝廷定制相异” (《春記》长历3年10月12日条)如此评价。

2、赖通有一柄关于被东宫世世代代继承的“壶切的剑”,是藤原家的女儿所生的东宫的携带品,但却(赖通)却没交付给尊仁亲王(《水湾谈抄》)

3、藤原祇子的出生记录不详。有藤原赖成女及具平亲王女等说法。藤原赖成是具平亲王故后藤原伊佑的养子,而祇子同样是具平亲王故后由兄长赖成作为养女的记录(据《荣华物语》)。具平亲王女的说法见相关资料中“源祇子”的说法。

  评论这张
 
阅读(559)| 评论(0)
推荐 转载

历史上的今天

在LOFTER的更多文章

评论

<#--最新日志,群博日志--> <#--推荐日志--> <#--引用记录--> <#--博主推荐--> <#--随机阅读--> <#--首页推荐--> <#--历史上的今天--> <#--被推荐日志--> <#--上一篇,下一篇--> <#-- 热度 --> <#-- 网易新闻广告 --> <#--右边模块结构--> <#--评论模块结构--> <#--引用模块结构--> <#--博主发起的投票-->
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

页脚

网易公司版权所有 ©1997-2017