注册 登录  
 加关注
   显示下一条  |  关闭
温馨提示!由于新浪微博认证机制调整,您的新浪微博帐号绑定已过期,请重新绑定!立即重新绑定新浪微博》  |  关闭

冷露非秋剧情吐槽 分站

主站http://sakuramachi.lofter.com/

 
 
 

日志

 
 
关于我

原创文字及图片禁止无授权转载及用于商业活动,谢谢合作!版权所有,盗用必究! 《剧情+吐嘈》系列与《布袋戏同人》系列,文章版权归我所用有,不可商用,截图来源于霹雳布袋戏及金光布袋戏,其他引用图片及转载文章归各自作者所有。禁止无授权转载,盗用必究!

网易考拉推荐

藤原俊成介绍试译  

2008-06-11 11:25:49|  分类: 观后感 |  标签: |举报 |字号 订阅

  下载LOFTER 我的照片书  |

 试译请不要转载

 藤原俊成(ふじわら の としなり、永久2年(1114年)—元久元年11月30日(1204年12月29日)是平安时代后期镰仓时代初期的歌人。按照“有職読み”读作「しゅんぜい」。开始名字是显广(不过)后面改名了。法名释阿。据了解是《千载和歌集》的编者。

生涯

最早作为歌人而被人熟知的活动,是作为藤原基俊的(和歌)老师。受佐藤义清(西行法师)出家影响,自身也一时有出家的愿望,一边反映平安末期的无常印象,确立踏了《万叶集》和《古今集》的传统的抒情性丰富的和歌的风格,当代重视了新奇风格的六条流和歌风格和当时的诗坛一分为二了。在和歌所寄人工作,受后白河院的院宣单独编纂了『千载和歌集』。

歌学著作除《古来风体抄》(奉后白河院的皇女式子内亲王编撰)之外,还有《俊成卿和字奏状》、《古今问答》,选歌集有《俊成三十六人歌合》,家集有《长秋咏藻》《俊成家集》。《长秋咏藻》被列为六家集之一。也作为九条家藤原良经举行的六百番歌合上的判者。

即使指导者有公认,除了进行九条家的歌道的指导以外,对门生以儿子定家为首,门生寂莲,藤原家隆等优秀的和歌作家也多数辈出。在《平家物语》(《忠度出奔》)中,门生中的一人与平忠度的小故事也能描写(详细后述)。还有一边抱梧桐木制圆火盆一边作歌的癖性的事也有名。

因身在北家,作为很有权利的旁系的长家流一支,早早的与官任权大纳言父亲死别,出世(为官的时间)被很大地推迟了,不过,他保持了(当时)破例的长寿,累官到皇太后宫大夫正三位为止。被儿子藤原定家的《小仓百人一首》(选中歌作),作为皇太后皇宫大夫俊成被收录。在社会政治&12539;经济的矛盾加深中,时代转移到武家夺取政权的中世纪,俊成在时代的动荡期生存下来,并确立了作为歌道世家的御子左家的家名。

有关俊成的小故事首先想起来是源平合战时(治承&12539;寿永的紊乱)与平忠度的会面吧。被《平家物语》卷7《忠度出奔》记录下来。不过,(忠度)勇敢也好,即使是作为歌人从师于俊成,才能出色的平清盛最小的弟弟平忠度,在1183年(寿永2年)7月平氏一门出奔离开京城之际,也访问了俊成的宅邸。忠度请求如果(俊成)对平氏的局势不介意,希望俊成如果有机会奉敕撰集和歌集时,收录一首自己的和歌。也许也是九泉之下守护,忠度不久在一之谷战死了。此后,俊成考虑到对朝廷的立场,以“秩名”在《千载和歌集》上刊登了(忠度的和歌)。也许是有赖(忠度)保佑,已经70近的俊成又活了20多年之外。 再者,在打倒了平氏,掌握政权的4个月前,建了镰仓幕府的源氏前将军源赖家也因与御家人的权利斗争中失掉了性命,眼见于此,专制的君主后鸟羽上皇打算取回朝廷的政治主导权。从很早有出家愿望的俊成,(生涯)说不定是被重新执掌世间的无常勒紧着的。

官职位阶履历

(日期=旧历)

1123年保安4)父亲俊忠去世,成为叶室藤原显赖的养子,以显广自称。

1127年大治2)1月19日,叙从五位下,任美作守。

1132年天承2)闰4月4日,迁任加贺守。

1137年保延3)12月16日,迁任远江守。

1142年永治2)1月23日、再任远江守。

1145年久安元)11月23日,叙从五位上,任远江守如旧。 12月30日,迁任三河守。

1149年(久安5)4月9日,迁任丹后守。

1150年(久安6)1月6日、叙正五位下,任丹后守如旧。

1151年(久安7)1月6日、叙从四位下,任丹后守如旧。

1152年仁平2)12月30日,迁任左京权大夫。

1155年久寿2)10月23日,叙从四位上,任左京权大夫如旧。

1157年保元2)10月22日,叙正四位下,任左京权大夫如旧。

1161年応保元)9月19日,任左京大夫

1166年永万2)1月12日,辞去左京大夫之职。 (改元)仁安元年8月27日,叙从三位。

1167年仁安2)1月28日,叙正三位。   12月24日、名讳改为俊成。

1168年(仁安3)12月12日,右京大夫に任官。

1170年嘉暦2)7月26日,兼任皇后宮大夫(后白河的皇后藤原忻子)。

1171年(嘉暦3)1月18日,兼任备前权守。

1172年承安2)2月10日,因为皇后成为了皇太后,从皇后皇宫大夫变为皇太后宮大夫的人事上的调动。

1175年(承安5)12月8日,卸任右京大夫一职。

1176年安元2)9月28日,出家。法名:释阿 。

1204年元久元)11月30日,去世。享年91 岁。

系谱

  • 父:藤原俊忠(权中納言
  • 母:藤原敦家女
  • 兄弟:藤原忠成&12539;藤原忠定&12539;藤原公長&12539;藤原俊定&12539;快修他 (原文若此)
  • 妻:美福門院加贺
  • 妻:藤原為忠女
    • 子女:京极局
  • 妻:六条院宣旨
    • 子女:八条院坊门局

在藤原道长的曾孙时,属于藤原北家主家流(御子左家)。

 

 

藤原 俊成(ふじわら の としなり、永久2年(1114年)-元久元年11月30日1204年12月29日)は平安時代後期から鎌倉時代初期の歌人。有職読みで「しゅんぜい」とも読む。はじめ顕広(あきひろ)を名乗ったが後に改名した。法名は釈阿。『千載和歌集』の編者として知られる。

生涯

早くから歌人としての活動を始め、藤原基俊に師事する。佐藤義清西行)の出家に影響され、自身も一時その願望を持つ事となったが、平安末期の無常観を反映しつつ、万葉集古今集の伝統を踏まえた抒情性の豊かな歌風を確立し、当世風の新奇性を重視した六条流の歌風と当時の歌壇を二分した。和歌所寄人をつとめ、後白河院の院宣で単独で『千載和歌集』を編んだ。

歌学書には、『古来風躰抄』(後白河院の皇女である式子内親王に奉ったもの)のほか、『俊成卿和字奏状』『古今問答』。選歌集に『俊成三十六人歌合』。家集に『長秋詠藻』『俊成家集』。『長秋詠藻』は六家集の一つに数えられる。また九条家の藤原良経が催した六百番歌合の判者をつとめた。

指導者としても定評があり、九条家の歌の指導をおこなうほか、息子定家をはじめとして、門下に寂蓮藤原家隆など優秀な歌人を多数輩出した。『平家物語』「忠度都落」にも門下のひとり平忠度とのエピソードが描かれる。(詳細は後述)また桐火桶を抱えながら歌を作る癖をからかわれていた事も有名である。

北家でも、権大納言を極官とした傍系の長家流で、父と早く死別した事もあって出世は大きく遅れたが、当時としては異例の長寿を保ち、皇太后宮大夫正三位にまで進んだ。息子藤原定家の『小倉百人一首』には皇太后宮大夫俊成として採られるが、彼とともに社会が政治&12539;経済的矛盾が深まる中、武家が政権を奪取する中世へ移行する、時代の激動期を生き抜き、歌の家としての御子左家の名を確立した。

 

治承&12539;寿永の乱)の最中の平忠度との再会であろう。『平家物語』巻7『忠度都落』に記されているが、 武勇も優れていたが、歌人としても俊成に師事し、才能に優れていた平清盛末弟の平忠度1183年寿永2)7月平氏一門都落ちの際、都に引き返し、俊成の邸を訪れた。動揺する家人達にかまわず会った俊成に忠度が頼んだのはもし勅撰和歌集が作られるのなら、自分の歌を一首入れてほしい。さすれば草葉の陰からお守りするとの頼みだった。まもなく忠度は一ノ谷の戦いで戦死したが、俊成は朝廷への配慮から詠み人知らずとして『千載集』に載せた。その加護があったのか、既に70近かった俊成は更に20年余り生きた。 なお、薨去の4ヶ月前には平氏に代わって政権を握り、鎌倉幕府を建てた源氏も前将軍源頼家御家人の勢力争いの中命を落とし、それを見ていた専制的君主後鳥羽上皇が政治の主導権を朝廷に取り戻そうとしていた。早くから出家願望があった俊成だったが、改めて世の無常をかみ締めていたのかもしれない。

 

1123年保安4)、父俊忠薨去により、葉室藤原顕頼の養子となり、顕広と名乗る。

  • 1127年大治2)1月19日、従五位下に叙せられ、美作守に任官。
  • 1132年天承2)閏4月4日、加賀守に遷任。
  • 1137年保延3)12月16日、遠江守に遷任。
  • 1142年永治2)1月23日、遠江守を重任。
  • 1145年久安元)11月23日、従五位上に昇叙し、遠江守如元。 12月30日、三河守に遷任。
  • 1149年(久安5)4月9日、丹後守に遷任。
  • 1150年(久安6)1月6日、正五位下に昇叙し、丹後守如元。
  • 1151年(久安7)1月6日、従四位下に昇叙し、丹後守如元。
  • 1152年仁平2)12月30日、左京権大夫に転任。
  • 1155年久寿2)10月23日、従四位上に昇叙し、左京権大夫如元。
  • 1157年保元2)10月22日、正四位下に昇叙し、左京権大夫如元。
  • 1161年応保元)9月19日、左京大夫に遷任。
  • 1166年永万2)1月12日、左京大夫を辞任。 改元して仁安元年8月27日、従三位に昇叙。
  • 1167年仁安2)1月28日、正三位に昇叙。   12月24日、諱を俊成と改める。
  • 1168年(仁安3)12月12日、右京大夫に任官。
  • 1170年嘉暦2)7月26日、皇后宮大夫(後白河の皇后藤原忻子)を兼任。
  • 1171年(嘉暦3)1月18日、備前権守を兼任。
  • 1172年承安2)2月10日、皇后が皇太后となったため、皇后宮大夫から皇太后宮大夫に異動。
  • 1175年(承安5)12月8日、右京大夫を止む。
  • 1176年安元2)9月28日、出家。法名:釈阿
  • 1204年元久元)11月30日、薨去。享年91
    • 権中納言

    • 母:藤原敦家女
        • 兄弟:藤原忠成&12539;藤原忠定&12539;藤原公長&12539;藤原俊定&12539;快修他
        • 妻:美福門院加賀
        • 妻:藤原為忠女
          • 子女:京極局
        • 妻:六条院宣旨
          • 子女:八条院坊門局

        藤原道長曾孫にあたり、藤原氏北家長家流(御子左家)に属する。

         

          评论这张
         
        阅读(371)| 评论(0)
        推荐 转载

        历史上的今天

        在LOFTER的更多文章

        评论

        <#--最新日志,群博日志--> <#--推荐日志--> <#--引用记录--> <#--博主推荐--> <#--随机阅读--> <#--首页推荐--> <#--历史上的今天--> <#--被推荐日志--> <#--上一篇,下一篇--> <#-- 热度 --> <#-- 网易新闻广告 --> <#--右边模块结构--> <#--评论模块结构--> <#--引用模块结构--> <#--博主发起的投票-->
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         

        页脚

        网易公司版权所有 ©1997-2017